- 平城宮跡略年表
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- 694年 (持統8年) 藤原京に都を移す。
- 701年 (大宝1年) 大宝律令を制定する。
- 707年 (慶雲4年) 元明天皇(女帝)が即位する。
- 708年 (和銅1年) 和同開珎を発行する。
- 710年 (和銅3年) 平城京に都を移す。
- 715年 (霊亀1年) 元正天皇(女帝)が即位する。
- 724年 (神亀1年) 聖武天皇が即位する。
- 729年 (天平1年) 長屋王の変。
- 740年 (天平12年) 藤原広嗣の乱を機に恭仁宮に都を移す。
- 742年 (天平14年) 紫香楽宮をつくる。
- 744年 (天平16年) 難波宮を都とする。
- 745年 (天平17年) 紫香楽宮を都とする。ふたたび平城京に都を戻す。
- 749年 (天平勝宝1年) 孝謙天皇(女帝)が即位する。
- 752年 (天平勝宝4年) 東大寺で大仏の開眼供養が行われる。
- 758年 (天平宝字2年) 淳仁天皇が即位する。
- 764年 (天平宝字8年) 藤原仲麻呂の乱。淳仁天皇に代わり孝謙上皇が再び称徳天皇(女帝)として即位する。
- 770年 (宝亀1年) 天智天皇の孫の光仁天皇が即位する。
- 781年 (天応1年) 桓武天皇が即位する。
- 784年 (延暦3年) 長岡京に都を移す。
- 810年 (弘仁1年) 平城上皇、平城遷都を計画するが失敗する。(薬子の変)
- 864年 (貞観6年) このころ、平城旧京の道路は田畑となる。
- 平城京
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- 平城京
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和銅3年(710)、奈良盆地の北端に造られた平城京が新しい都と定められました。元明天皇が律令制にもとずいた政治をおこなう中心地として、飛鳥に近い藤原京から都を移したのです。中国・唐の長安城などを模範とした都をつくることは、当時の東アジア中で国の威厳を示す意味もありました。
その後、聖武天皇は740年から745年まで、都を転々と移しますが、745年には再び平城京を都としました。そして、長岡京に都が移る784年までのあいだ、奈良の地が都として栄えたのです。この時期を奈良時代といいます。
平城京のメインストリートは、京の南門である羅城門から北にまっすぐのびる幅約74mの朱雀大路です。朱雀大路をはさんで西側を右京、東側を左京といいます。左京に北の方で東にさらに張り出しがありました。平城京は大小の直線道路によって、碁盤の目のように整然と区画された宅地にわけられてます。平城京の住民は4~5万人とも10万人ともいわれますが、天皇、皇族や貴族はごく少数の百数十人程度で、大多数は下級役人や一般庶民たちでした。
- 平城宮
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- 平城宮
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平城京・朱雀大路の北端には朱雀門がそびえていました。朱雀門をくぐると天皇の住居であり、政治や国家的儀式をおこなう平城宮です。平城宮の周囲には大垣がめぐり、朱雀門をはじめ12の門がありました。
平城宮の内部にはいくつかの区画があります。政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇の住まいである内裏、役所の日常的業務をおこなう曹司、宴会をおこなう庭園などです。そのなかでも政治・儀式の場は、都が一時離れた時期を境にして、奈良時代の前半と後半で大きな変化がありました。奈良時代前半に、朱雀門の真北にあった大極殿(通称、第一次大極殿)が、奈良時代後半になると東側の区画で新たに建てられたのです(通称、第二次大極殿)。これに対して、内裏は、奈良時代を通じて同じ場所にありました。
これらの事実は、40年以上におよぶ発掘調査によってわかってきたことです。このうち、ほぼ正方形と考えられてきた平城宮が、じつは東部に張り出し部分をもつことがわかったことや、その隅に奈良時代の庭園を発見したことなどは、発掘調査による大きな成果のひとつといえるでしょう。
- 東院
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平城宮は、他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張り出し部を持ちます。この張り出し部の南半は、奈良時代をつうじて「東宮」呼ばれていたようですが、孝謙・称徳天皇の時代には、特に「東院」と呼ばれていました。称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催しました。光仁天皇の「楊梅宮」はもとより、聖武天皇の「南苑(南樹苑)」もこの場所を中心に営まれていたと考えられています。
- 朱雀門
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- 朱雀門
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朱雀大路に向かって開く平城宮の正門。元日や外国使節の送迎の際に儀式がおこなわれたほか、都の男女が集まって恋の歌をかけ合うのを天皇が見る、というイベントもここでおこなわれました。